匿名さん
こういう状況では、喪失不安が強まるのも、不満と怒りが渦巻くのも当然だろう。怒りは、排泄物と同じで、どこかで出さないと腹の中にどんどん溜まっていき、心身の不調につながることもある。しかも、古代ローマの哲学者、セネカが指摘したように「怒りが楽しむのは他人の苦しみ」であり、「怒りは不幸にするのを欲する」(『怒りについて 他二篇』)。日本が「貧乏国」になった結果、自分を正当化する人が増えてしまった(片田 珠美)
根性論を押しつける、相手を見下す、責任をなすりつける、足を引っ張る、人によって態度を変える、自己保身しか頭にない……どの職場にも必ずいるかれらはいったい何を考えているのか?
厄介なことに、被害者意識が強いほど、こうしたふるまいを正当化する。〈例外者〉特有の「もう十分に苦しんできたし、不自由な思いをしてきた」という認識に触れたが、〈例外者〉ほど極端なわけではないにせよ、「自分はずっと割を食ってきた」と思っている人はどこの職場にもいる。この手の人は、「自分はもう十分つらい思いをしたのだから、少々のことをしても許される」「自分は今まで損ばかりしてきたのだから、その分を取り戻すためにこれくらいのことはしてもいいはず」などと自己正当化する。
八つ当たり屋に限らず、事例の多くに鬱憤晴らしの側面があることは否定しがたい。不和の種をまいても、他人の秘密をばらしても、その場にいない人の悪口を言っても、必ずしも自分が得をするわけではない。にもかかわらず、そんなことをするのは、ターゲットが困惑し、ときには心身に不調をきたすのを見ると溜飲が下がるからだろう。だからこそ、「他人の苦しみ」を見るために時間とエネルギーを費やし、さまざまな手口を駆使する。
裏返せば、それだけ不満と怒りを溜め込んでいるともいえる。うがった見方をすれば、他人が少しでも不幸になるのを見ることくらいしか鬱憤晴らしの手段がないのかもしれない。まさに「他人の不幸は蜜の味」という言葉通りで、なかには残酷な快感を覚える人もいる。